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富岡製糸場と絹産業遺産群

 高品質な生糸の大量生産を実現した「技術革新」と、世界と日本との間の「技術交流」を主題とした近代の絹産業に関する遺産です。日本が開発した絹の大量生産技術は、生産量が限られ一部の特権階級のものであった絹を世界中の人々に広め、その生活や文化をさらに豊かなものに変えました。

 

ーフランスの技術を導入した日本初の本格的製糸工場ー

 富岡製糸場は明治政府の近代化政策のもと、主要輸出品であった生糸の品質向上と増産を目指して1872(明治5)年に設立された日本初の官営模範製糸場です。フランスの技術を導入して設立され、日本の製糸技術の最先端として活躍しました。さらに養蚕業と連携した蚕の優良品種の開発と普及を主導しました。その後、1987(昭和62)年、生糸の世界的な価格競争の影響を受け富岡製糸場は操業を停止し、115年間続けた生糸生産その幕を閉じました。現在でも主要な施設が創業当時のほぼそのまま残っています。

田島弥平旧宅

 田島弥平は良い蚕種をつくるための養蚕法を研究、通風を重視した「清涼育」を大成し、1863(文久3)年に越屋根のある住居兼蚕室を完成せさました。弥平が著した『養蚕新論』、『続養蚕新論』によりこの構造は各地に広まり、日本の近代養蚕農家建築の原型となりました。また、弥平らは1879(明治12)年から1882(明治15)年までイタリアに赴き、蚕種販売(直輸出)を行い、この際に西欧の文化と共に持ち帰った顕微鏡で弥平は蚕の病気の研究を行います。富岡製糸場が繭の改良運動を始めると、田島家は外国種や一代雑種の試験飼育に協力しました。

高山社跡

 高山長五郎は繭の増産と品質向上のための研究を行った人物で、1883(明治16)年に換気と温湿度管理をきめ細かく行う「清温育」を確立し、その普及のため翌年に養蚕教育機関「養蚕改良高山社」を設立しました。高山社は日本全国のみならず中国や朝鮮半島からも生徒を受け入れ、現地に出向いて養蚕の指導を行う授業員の派遣も国内、中国、台湾、朝鮮半島に及びました。これにより「清温育」は日本の近代養蚕法の標準となりました。生徒の増加に伴い学校が移転した後は、この地は実習場として利用されました。富岡製糸場が繭の改良運動を始めると、高山社は外国種や一代雑種の試験飼育、農家への飼育指導等に協力しました。

荒船風穴

 日本の養蚕は古代から年一回春に行うのが一般的でしたが、19世紀後半になると、山間の夏でも低温の風が出る風穴と呼ばれる場所に蚕の卵(蚕種)を貯蔵して、ふ化の時期を調節し、年複数回の養蚕を行う試みが始まります。高山社で学んでいた庭屋千壽がこの地に冷風の吹き出す場所を見つけると、その父静太郎は1905(明治38)年から1914(大正3)年にかけて、気象学や養蚕、土木の専門家の指導を得ながらこの蚕種貯蔵風穴を建設しました。荒船風穴は国内最大規模の貯蔵能力を誇り、国内40道府県をはじめ朝鮮半島からの蚕種も貯蔵し、養蚕の多回数化を支え繭の増産に貢献しました。また、富岡製糸場が繭の改良運動を始めた際には、試験飼育用の蚕種を預かるなどの協力を行いました。